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  • 日本基督教団 仙台東教会

2019年11月17日 №125-46            「神の約束を信じたモーセを想う」            

                       出エジプト記2章1節~10節(P.95) 

 ハンセン病家族支援法が成立との報道があった。

 モーセについて、ヨセフスのユダヤ古代史に、当時流布していたエジプトの伝承に、モーセの名を名乗るオサルシフォスについての記述があり、それは皮膚某患者の監督官だったという。

 モーセの召命記事に、彼が民が自分の使命に疑義をもつ懸念をもらすと、神は三つのしるしを与えたある。即ち、モーセの杖を蛇に変えること。モーセの手を重い皮膚病に変え、また癒すこと。そしてナイルの水を血に変えることであった。モーセには重い皮膚病者というステイグマ(聖痕)があったのかもしれない。

 モーセには他にも聖痕と思しきものがある。彼は同胞を苦しめるエジプト人を殺害した殺人逃亡者の過去がある。彼自身言語障害(吃音)の可能性も考えられる。また彼は異教徒との結婚という「汚れ」を自ら負っていた。

 神は、まさに幾重もの聖痕を身に帯びたモーセをこそ、預言者として呼び出したのである。ここには神の救いの御業の秘義がある。

 神が神の救いの約束を人類にあまねく伝え、全人類救済の御業成就にあたり、いくつかの重要な局面がある。

(1)神がモーセに。(2)モーセが民に。(3)民が人類にという局面である。

 神がモーセを召命し、モーセは民に神の名をどう語ったらよいのか問うた時に、神は、ご自身を「わたしはあるという者である。」とお答えになった。

 有賀鐵太郞は、神の名の理解をヘレニズム的な概念ではなくヘブライ的な動的な理解をすべきとして「ハヤトロギア」を提唱した。神様は我らの理性で把捉できるようなお方ではない。ギリシャ的な観照(テオリア)で神を認識することはできないとして、ヘブライ的な動的な意味において神を理解しようとする。たしかに神の行動は理性的な論理では矛盾としか見えないことがあまりに多い。神がモーセに約束した出エジプトの使命は、神の命令であって絶対不可侵であり、撤回されえぬ決定性をもつ。それにもかかわらず神はミデイアンからエジプトへの途上で、モーセを殺害しようとされた。約束の絶対性もここでは神の不可解な行動によって理性的な理解を超絶している。

 モーセの生命を救ったのは、異教徒の妻ツイッポラの咄嗟の行動であった。息子の包皮を石刀で切り取り、モーセの足にはり付けた。神の御使いはするとモーセから去って行った。聖書記述者は「割礼のゆえ」と妻の行動に解釈を加えている。つまり、妻ツイッポラの行動は、モーセに約束を啓示した神への「信仰告白」となっていたというのだ。言葉による信仰告白ではなくて行為による信仰告白である。この逸話には、妻の行為による信仰告白がモーセの信仰告白との共同の告白をなしているということと理解され得る。

 共同の信仰告白を神は、モーセとその妻、さらには息子に要求されたもうたということである。さらにこの事実は、「汚れ」のステイグマであったものが、救いの「しるし」とされるという秘義を内包している。神は、傷ついた癒し人をこそ救いの使信の担い手として召し出されるというのである。

 


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