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風媒花通信 2020年2月号

最終更新: 2月23日

アブラハムが妻サラとの間に生まれたイサクを捧げよと、主から命じられたことは、神の啓示という事柄が、いかなるものであるかを示しています。

 まず、神の命令が、アブラハムにとって、これ以上苛酷な事はありえないことであったことを思うと、唯一者なる神への信仰というものが、人間の内心の願望が生み出した「宗教」などとは、およそ異なるものであると考えざるを得ないということです。およそ人間にとって耐え難き深刻な犠牲を、ここで神は要求しているからです。

 年老いてから授かった約束の子イサクを失えば、神が約束してくださった最初の祝福も無に帰してしまうではありませんかと。アブラハムから見れば、神ご自身の約束さえも反故にしてしまう要求に思えたはずです。彼には、「神のその矛盾」を憤っても無理もないほど残酷な要求に感じられたことでしょう。その要求は、彼自身の命よりも大事な息子の命を焼き尽くす捧げ物として献げよということだからです。

 幾度も彼は内心、神を恨み、憤ったのではないか。しかし聖書は彼のその煩悶を記憶しません。ただ彼が黙々と神の要求を寡黙に実行に移す外形的行動を淡々と記録しています。それだけに、むしろアブラハムの苦闘が行間からほとばしるようです。

 イサクもまた、けなげに父に殺害されることを察知し、自分が死ぬべく神に定められているという事態を受け入れ、父アブラハムの刃が自分の胸を刺し貫こうとする瞬間を覚悟して待っていました。

 そして、ついに父が子に刃を振り下ろす最後の瞬間が来たときのことでした。神は、父アブラハムの手を止め、「あなたが神を畏れる者であることが、今分かった」と彼を留めたのです。そのとき、献げるべく、神があらかじめ準備してくださっていた雄羊が木の茂みに角をとらえているのを見いだしたのです。彼はその場所を「ヤーウェ・イルエ」(主は備えてくださる)と名付け、その場所は、「主の山に備えあり」(イエラレ)と呼ばれることになりました。「イエラレ」は、プロビデンス(摂理)の信仰の由来となります。

 わたしが、仙台東教会を紹介されたのは二〇一八年十二月二十八日の夜でした。あれからちょうど一年後の二〇一九年十二月二十八日の夜、わたしは仙台東教会を辞任することをある方に伝えました。

 今にして思うと、これはプロビデンスであったと考えざるをえません。すべては、主なる神があらかじめ準備していてくださった通りになったのです。わたしはそう信じています。「主の山に備えあり」(イエラレ)

 仙台東教会の信徒の皆さまには深い尊敬と感謝を今でも変わらずに持ち続けています。また初めての仙台暮らしは、生まれて初めてのことばかりでした。野球観戦、ワールドカップ、サッカー観戦、広々とした牧師館、自転車通勤、歯の治療、などなど感動づくしでした。毎週の説教や、聖書を読む会は、喜びの連続でした。私が辞任するのは、教会と宣教の馳場との関係を決して分断してはならない。そしてこのことをめぐって教会を分断してはならないと判断したからです。わたしはなすべきことは為したという思いがあり、後悔はしていません。ただ、志なかばで去るので多くの課題が山積したままです。それゆえ、願わくば、それらを軽やかに解決する、神に準備された後任牧師が紹介されることを心から祈るものです。


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