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  • 日本基督教団 仙台東教会

風媒花通信 2020年3月号

最終更新: 3月17日

その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気を癒やしていただいた人に言った。

 「今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない。」

 しかし、その人は、「私を治してくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのは誰だ」と尋ねた。

                        (ヨハネによる福音書5章)

主イエスの自己啓示が、そこで「語られる状況性」によって、その「証言の真実」から反転して「不真実」を意味してしまうという事情を、この「ベトザダの池」の出来事は伝えている。主イエスの「福音」とは、このよう意味が変容する事を含む「十字架への道行き」の全行程をが理解されてこそ、はじめて、わたくしどもの現実に直に触れてくる。

 体の不自由さを余儀なくされていたこの男は、三十八年の長きに渡り、身体的・社会的な苦しみの中で生きてきたが、決して希望を捨ててはいなかった。安息日にもかかわらず、彼は(霊験あらたかなベトザダの池)に来ていたことに、それは窺える。水が動く時に、真っ先に水に飛び込む者を神は癒されるという信仰が深く信じられていたからだ。ただ、この日は安息日だ。もし癒されたとして、それは「律法違反」の罪を犯すことになる。それでも男がここに来ているのは、たとえ「罪人」として断罪されたとしても、病が癒され自由となる事を彼が優先していたことを意味していたからだ。それほどまでに彼の苦悩は深かった。彼は病のために、「なきに等しい」者どころか、この世界の「汚れ」を一身に帯びる者として、社会から排除・隔離されていた。「負の存在」として「烙印」を既に押されていたのだ。その烙印の上に、さらなる烙印を押されることは、彼の苦悩の深刻さから観れば、どうということもなかったのかもしれない。今以上の苦難はないも同然なほどの苦難、「どん底」の苦悩の中に彼はいたのだ。

 「良くなりたいのか。」主イエスの呼びかけは、彼の生の希望を凝縮している。主は、彼の全存在の目的をこの呼びかけによって明らかにされた。そうだ、「良くなりたい!」。このどん底から自由になりたい!。

 「起きて、床を担いで歩きなさい。」主イエスのみことばには、創造者としての権能がある。神の創造のみ業がここで起きた。彼は、自立して歩き出したのだ。身体の自由!彼の全身は血流が漲り、筋肉は急速に成長し、壮健な身体へと変貌した。彼には、自由がある。歩き回れる。重い荷物も担げるのだ。

 ただ、男は神から賜与された自由(そこには社会的な「死」からの解放も含まれている。)、を駆使して「罪」を犯すことになった。安息日規定を破った「律法違反」の「罪」のことではない。彼は主イエスへの感謝も神への賛美も口にすることなく、「律法違反」を咎める者の「とがめ立て」に対して、救い主イエスを背後から指さし、「罪の真の下手人はあの人だ」と「罪の転嫁」をした。ここに「罪」がある。しかしそれにもかかわらず、主イエスは、「あなたは良くなったのだ。」と、主イエスを売った彼を、少しも「罪人」として扱うことなく、あたかも罪を犯さなかったかのごとく、「良き人」と確言された。主イエスが、示された福音は、裏切る者、殺そうとする者、排除しようとする者を、徹して愛し抜くこれら全行程によって示されるのだ。。

 さて、男は、主イエスを、売り渡す時に、虚偽を証言したのであろうか。そうではない。彼は、彼は彼が経験した「裸の事実」を証言した。外形的には正直だった。ただし、その「事実の証言」は、彼の中で生起した「真実」を見えなくさせた。ユダヤ人たちは男の証言により何を見たのか。主イエスに神ご自身を認めながら、神の子を自称する不遜者を見ることになったからだ。「語りの状況性」は、常に事実を語り手、受け手の成熟度に応じていかようにも変移させる。ここに人生において、苦難は避けることができない必然性があるのだということを観るのだ。

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