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  • 日本基督教団 仙台東教会

2019年10月13日№125-41「神は世の貧しい人をあえて選びたもうたではないか」 ヤコブ書 2章1節~9節(P.422~423)

 ヤコブ書が問題としている事柄は、明らかに「富を所有しているか否か」という「属性」によって人格的交わり、わけても主の肢体なる共同体=聖徒の交わりを破壊する他者への「判断」である。

 これを端的に「差別」と言う。

 牧師の中でさえ、「教会の中では政治的事柄は語るべきではない」などと平気で宣う者もいるが、聖書を真面目に読んでいないのであろう。

 ヤコブ書がここではっきりと、「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」と厳しく糾弾しているではないか。

 これは人と人との間に生起した「差別という出来事(=事件)」を「誤った判断(裁き)」に基づいている事件(=出来事)だと言うのであり、優れて「政治的事柄」だと言っているに等しい。

 聖書自体が、「政治的事柄」について私ども罪人の「悪」を糾弾しているのだ。この差別という悪を、ここでは「あの尊い名の冒涜」と断定しているのだ。

 神さまから、私どもは自己吟味を要求されている。神からの「要求」を賜ることは神の恵みに他ならない。信仰とは神からの要求に対する応答なのである。

 この「誤った判断」は、自己の狭隘な先行する判断によって(偏見)隣人を外貌(見た目)、人種、民族、性別、性的志向、階級などによって、決めつけ、神さまが一人一人を創造された本来的な尊厳を毀損する。隣人の尊厳を毀損することは、すなわち、「神の御名への冒涜」なのだという政治的な「指摘」でなのである。

しかも、ヤコブ書は、この「指摘」「要求」を実践しないのであれば、神の御前で「罪人」「違反者」として、神ご自身から「判断(裁き)」を下されるという。政治的な指摘・要求を神から賜っている以上は、必ず、果実を結ばねばならない。つまり行動へと移さねばならないというのだ。

自分が測る秤で、自分も測られる。ただし自分の狭隘な秤そのものが、神の裁きによって測られる。私どもは「神さま」ではあり得ないのだ。私どもは、隣人をただ神が、いま、ここに送り給いし、神からの使者として、その神の賜物を発見するために見ることができるだけなのだ。

 政治的な要求は、信仰的思惟なしには応答できない。

 主イエスは律法の一点一画も廃れることはないと宣言された。律法が要求することは、神の要求なのである。小さな律法違反であっても、それは律法全体の違反に等しく、「有罪は有罪」だというのだ。実に厳しい要求ではないか。「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について『有罪』となるからです。」とある。

 だからこそ、パウロもこの思考の流れの中にいるのだが、だからこそ、誰一人として「違反者」「罪人」でない者はいないのだ、と。

 一人の例外もなく、「罪人」だという断罪は、いくらか気持ちが楽になる。彼は罪がないが自分にはあるという訳ではない。そういう「罪の連帯の中」に私どもはいる。断罪には例外がないが、救いにも例外はない。なお楽になる。 「神は実に独り子を給わったほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 この御子を信じることは恵みによって生起する。必ず生起する。

 神の約束は絶対であり、撤回され得ないからだ。わたしどもは、その歴史過程のただなかにいる。それゆえ私どもは、折りを得ても得なくても、一人も滅びることのないように主の救いを知らせるのである。

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