検索
  • 日本基督教団 仙台東教会

2019年12月29日 №125-52

「あなたがたは約束による相続人なのです。」

ガラテヤの信徒への手紙3章26節~4章7節(P.346~347)

先週に引き続き、テキストは、キリストにあずかる洗礼を授与された者についての考察へと私どもを導きます。

 人種・民族、性差も、身分の差も、もはやキリストにある一致において、一致を妨げる差異として存在しなくなったという。これは差異が存在しなくなるということではなく、一致を妨げる差異としての性質をもたなくなるという意味であり、キリストにあって一つになったことが差異の力を超越したということでしょう。

 キリストにあって愛し合うという現実が、罪の現実にとって代わる。見えないところにキリストの十字架が活きている。キリスト者の十字架(犠牲愛)は、それとして不可視であることが避けられないが、ただ神はその至誠を知りたもう。キリスト者の十字架(犠牲愛)はこの世での栄誉を求めず、ただ神の審判をこそ待ち望むのです。

 具体的には、思考が変えられてゆくということ。

 進化し続ける目的、利己的な動機を凌駕する利他的、全体目的への献身、人間的な評価よりも永遠の相からの評価を祈念する。日常がこれらの価値への不断の振り返りに生きるようにされる。このような振り返りの中であっても、谷がある。苦難の谷がある。この辛さを引き受けることが十字架の愛だ。理解されなくても理解する。信用されずとも信用し続ける。邪悪さとは決して妥協しない不屈。この十字架の愛(犠牲愛)にあって忍耐が弁解にとって代わる。

 この世の慰めではなく、天与の慰めを求める。だからこそ、この世では十字架の愛は不可視の彼方へと隠される。そしてキリスト者はそれを良しとする。このようなキリスト者に反映するキリストの愛に、人類は支えられている。

 わたしたちが、このキリストのものであるなら、「約束の相続人」だと使徒は断定してくれた。キリストの十字架の愛が、わたしたちによって反映しているとすれば、約束の相続人なのだと言う。もはや未成年ではない。

 しかし、なんとわたしたちは未成年の時代に留まり続けていることであろうか。「この世のもろもろの霊力」に奴隷として仕えていることであろうか。

  わたくしどもは進化し続ける目的に絶えず、繰り返し魂を傾注しているであろうか。 「アッバ、父よ」と叫ぶように祈っているだろうか。

 日々の、繰り返しの祈りにおいて、祈っているだろうか。「この世のもろもろの霊力」に奴隷として仕えていないだろうか。

 「アッバ、父よ」と呼び求める主イエスの霊が、わたしたちに注がれるなら、私どもは、もはや奴隷ではないと使徒は断言する。

 

 

0回の閲覧

© 2019 by Sendaihigashi Church. all rights preserved.