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  • 日本基督教団 仙台東教会

2019年4月28日№125-17「エマオ途上」     ルカによる福音書24章13節~35節(P.160)

エマオ途上にて、二人の弟子たちの人生が、これまでのありようとは異なるものとされた。

彼らは、それまで見ていた世界が見えていたように見ていたのは、実は信仰とは迂遠な見方で見ていたにすぎず、主イエスとの「出会い」によって、見えていた現実が存在の真実の現実ではなく、皮相な認知にすぎなかったという事実を体験した。

 二人は、現実には主イエスと出会い、話し合いもしていたが、その相手の旅人が主イエスであことに気づかなかった。彼らに見えている現実が彼らの認知においては主イエスとして認知しえていないのだ。この報告が意味するものは、①「信仰知」と「信仰無き知」がまったく異なるということ、そして②「信仰無き知」が必ず真実を認知しているのではないということ、それどころかむしろ③「信仰無き知」は真実の現実なのではなく、そう見えているには見えていけれども、それは「事柄の皮相」でしかないという事実である。

 エマオ途上は、現実を知るということの旅の途上、「信仰知の旅」の途上を伝える出来事だ。

主イエスを主イエスとして認識したのは、主の晩餐を想起させるイエスの所作により、「パンを裂いてお渡しになった」時だった。それまでも主イエスは聖書から説き起こして「ご自分について書かれていることを説明され」ている。つまり、ご自分がその「主イエスご自身」であることを証しさえているのだ。ところが彼らは、それでも「信仰知」へと啓かれてはいない。

 主イエス御自身が説き明かしても、彼らには「信仰知」は生起しなかった。この事実が示すことは何であろうか。二人は、主イエスが死刑に処せられ、墓に葬られ、さらに婦人たちからの「主は生きておられる」という天使の告知まで報告を受けていたし、仲間のその確認まで知っていた。つまり、彼らは主の復活までの事の次第一部始終を知っていた。彼らは復活証言を聞いた最初の人たちだ。この弟子たちは、客観的な事情については一番詳しい者たちだ。エマオ途上で、主イエスご自身が彼らに話しかけて来られた当初、「しかし、二人の目は遮られていた」とある。「目が遮られている」と表現されている。復活事件はそれほどまでに、認識不可能な出来事だったということだ。誰にとっても、同様の事情だろう。「信仰知」が生起しなければ、どれほど詳細な自然の知識があっても、主イエスを認識することはできない。

 「信仰知」(主イエスが主イエスということを知る事)は、彼ら自身の経験的知見からは決して起こらない。ただ主イエスがご自身を示す時にのみ起こる。だが、この知の生起するとき、隣人の誰彼を通して、親しく主イエスが語りかけてきている事実を、我らは認識するであろう。

 

 

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