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2019年5月12日№125-19「わたしは命のパンである」   ヨハネによる福音書6章34節~40節

  主イエスは,ご自身を「命のパン」と喩えられました。人格を食べものに喩えているのは、慣れ親しんだ私どもには至極自然に聞こえるのですが、少し距離をとって考えてみると、本当は相当に奇妙なことではないでしょうか。

 信仰のセンスが啓かれていない人には、奇異に聞こえるかもしれません。「キリスト信者は神として信じるイエスを食べてしまうそうじゃ」という具合に流布すると、主の晩餐が「カニバリズム」(食人)のような野蛮な行為と混同され、迫害の原因にもなったかもしれません。

 この捉え方の微妙な違和感をむしろ丁寧に考えてみたいのです。

 信仰と「食べること」とはどうも関係がありそうだ、と直感が指示しています。人は食べ方によって、身体的にも精神的にも大きな影響が現れます。今日、一般的に低所得層ほど、髙カロリーの炭水化物の摂取が多くなり,肥満になる傾向があると指摘されています。糖尿病などは富裕層の疾病というのは前時代的な誤解で、実際は高カロリー食に依存しやすい低所得層に多いという見方が正しいそうです。バランスよい食事、適度な運動は成人病予防の定番メニューですが、それができないから困ってしまう。

 古来、修行系の自力救済型の求道者たちは、食べることを律することで、心身を律しようとしてきました。その感覚は食べることと信仰が深い関わりがあることを示しています。

 食べることが「正常化」すれば、人格も「正常化」すると考えられます。

 ホロモドール(Holodomor,Famine Genocide)というそうだけれども1933年に起きた人為的な大飢饉で、何百万人もの人が餓死したのを虐殺と呼んでいるのです。外貨獲得のために農民から食糧を強奪した結果、多くの人が餓死する。こういう状況というのは、大昔も、現代でも変わらずに存在しています。

 食べられないという不安から、過食に走り、肥満化する。現実に食べられないので餓死する。この両極端が貧困者の「食の現実」だということ。

 「わたしは命のパン」という言葉から響いてくるものは何でしょう。この「食の現実」の生活の座で。主イエスは、まさにこの問いを荒野でサタンから問いかけられ、誘惑されました。「食の不安」は「生命の危機の不安」です。その「食の現実」を救済者としてどうするのかとサタンは鋭く突いてきたのです。

 餓死寸前の人類を前に、一体どうするのか、救えるのかこの子らをと。不安から過食へと逃避する人びとの不安を解消できるのかと。

 「人はパンのみにて生きるにあらず」。「わたしが命のパンなのだ」。

 さて、主の晩餐にて、主イエスが割いて手渡したもうたパンを食べるとき、主イエスは私たちに親しく臨んでおられます、こう宣言されています。主のパンをいただくことは、主イエスの苦難と死、復活と昇天という出来事すべてに参与させていただきつつ生きるようになるという意味があります。

 食べるという行為は、わたしたちの心身の全領域に直接の影響を及ぼします。この影響は、「サクラメンタル(聖餐によって)な連続性」として、わたしたちの「生命の現実」を新しく創造している、そのことを遙かに比喩しているのではないか。そうなると、わたしたちの食べること、食べないことの全体が、信仰と深い結びつきをもっていることに気づかされます。 

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