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  • 日本基督教団 仙台東教会

2019年5月26日№125-21「百人隊長の信仰」 ルカによる福音書7章1節~10節 (P.114)

百人隊長というから、この人物は100人の軍人を率いるローマ軍の軍人であろう。戦争ともなれば、人を殺害することも躊躇しないという腹を日頃から固めていなければなるまい。その内面生活は、おそらく苦悩に満ちていたと推認する。それゆえにこそ、彼には信仰問題は、もっとも高い優先順位をもっていたのではないか。

 ユダヤ人の叛乱が起これば、鎮圧部隊として命令一下、日頃愛していたユダヤ人でも容赦なく捕縛し、場合によっては殺害しなければならない。軍人としての規範というものは、その職業規範と個人の責任との間で苦悩を強いられ苦悩していなければならない。 私たちは、ナチスのホロコーストを実行、指揮した人びとは、信じられないような残忍な事をしたのであるから、さぞかし非人間的な輩たちだという思いをもつ。しかし、ハンナ・アーレントが見て取ったホロコーストの中心人物アイヒマン像は、ごく普通の役人にすぎなかった。普通の人間が、罪の意識なしに大量殺戮をなし得てしまった。「悪の凡庸さ(陳腐さ)」と彼女が呼んだ「悪の原因」とは何か、それは「完全な無思想性」だという。このボタンを押すと同時に何十万もの人間が一瞬で焼け死ぬという場合でも、軍人の規範では、それが上官の命令であれば、押すことになっている。そこに個人の責任とか思想は入り込めない。

 公務員には「職務専念義務」が法で定められている。軍人もまた命令違反は重罪に問われる。戦場で命令の内容について反抗し、背けば反逆罪として職を解かれる。上官からの命令は絶対なのか。戦場での軍人は、その問いを問うている猶予はない。とりあえず絶対なのである。

 登場する百人隊長もまた、この絶対命令のもとで動き、また絶対命令を下して部下を動かすという命令系統のなかの一部署に位置する。平時において、彼はユダヤ人を愛して、その信仰にも敬意を感じて、シナゴーグを建設するほどの財を投じるほどであった。

個人としての彼はユダヤ人を愛し、尊敬すらしており、天地創造の神を信じてもいたのである。彼は主イエスに部下を癒やしていただくにあたり、ユダヤ人の長老を使いにだせるほどにユダヤ人の間で信頼されていた。長老は彼を賞賛してやまない。

 主イエスは長老たちと百人隊長の部下のもとへと向かうと、途中で、百人隊長の友人がイエスをもとへやってきて、「ひとことおっしゃってください」と伝言してきた。主イエスは、それを聞いて感心し、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と百人隊長の信仰を褒めた、という出来事である。

 ユダヤ人からも信頼され、主イエスからも絶賛されたこの百人隊長は、しかしながら、一度も姿を、この出来事の間、現さない。姿を現さなくても「一言いただくだけで十分です」という奥ゆかしさが賞賛されているからでもあるが、この事実は注目してよい。ここでは、接触による奇跡治癒が否定され、意思による治癒が起きている。言葉すらも出ていない。主イエスは、部下に触れてもいず、言葉かけすらしていない。ただ百人隊長の願いに対して、主イエスは行為全体を通して承認している風体であったにすぎない。癒していただきたいという彼の願いを受けとめ、彼の「思想」に応答しているだけである。主イエスと彼の間には、緊張がありそうだ。面と向かって会わないほうがお互いのために良いのだという判断が働いているかもしれない。

 主イエスと百人隊長との間の緊張感は、主の十字架の苦難の道程において、唾を吐き、中傷を浴びせる兵士の背後で、苦悶する軍人がいたことを私たちに連想させる。

 彼はピラトの命令一下、イエス一党の捕縛命令を受けるかもしれない立場にあった可能性がある(それは十分ありそうなことだ)。しかし、この百人隊長はアイヒマンのように、「完全な無思想性」の担い手ではなく、軍人としての絶対命令義務と神の前に立つ個人の責任性との間で苦悶する「隠れたるキリスト者」ではなかったのではなかろうか。主イエスは彼を絶賛しつつ会うことはしなかった。肉において会わずとも、「君は神の子」だと主が承認されている事は明らかなのである。


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