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  • 日本基督教団 仙台東教会

2019年5月5日№125-18「主イエスはわたしたちの目の前で焼き魚を食べられた」 ルカによる福音書24章36節~43節

主イエスの遺体はたしかに墓の中から消えていた。マグダラのマリアは、主の遺体がどこに行ったのかわからず途方に暮れていると、二人の人(天使)の証言を聞いて、その言葉のそのままを弟子たちに伝えた。

 ルカによれば、使徒たちは婦人たちの言葉を「戯言たわごと」のように思い信じようとしなかったとしている。しかし、ペトロだけは(ルカによるとだが、ヨハネでは愛弟子と一緒に走っている)、確かめに走って行く。他の弟子とは違って婦人の報告を信じたのである。空虚な墓を確認し、目の前でたしかに亜麻布しかないという出来事に「驚きながら帰った」。

 空虚な墓を確認したが、それが驚くべき事態だという反応をしているのであるが、「主は生きておられる」のではないかという思いは、主イエスの言葉によっても、天使の言葉によっても、繰り返し語られているので、既に彼の胸中に去来していたとみてよい。驚いているのは、空虚な墓の事態が、「何者かによって盗まれたのではないか」というような、ユダヤ当局が番兵たちの報告を聞いて思いついたフェイク(捏造)を、彼もまた想像したのかどうかというと、それはまずないだろうことは、彼が心底驚いているからこそ言える。遺体泥棒の仕業という想像には、合理性(論理性)がない。一体遺体を盗もうというような動機をもつものは存在するのか。ユダヤ当局は、遺体が消えたという報告を聴き、そこで番兵が復活した主イエスを目撃しているにもかかわらず、「復活」しなかった事にする必要があったので、フェイクニュースを流布するように命じた。

 復活は、彼らには「あってはならない事」なので、番兵が事実イエスと遭遇していると報告しても、その事実を認めてしまうと自分たちの信仰・信念は崩れてしまうので、事実を認めないという選択をしたのだ。

 ペトロは、ルカによるとここでは、いまだ主イエスと対面してはいないが、婦人の言葉を信じた。遺体の消失は、主イエスが生きておられる証拠のように思われたのだ。

 ユダヤ当局(番兵、祭司長ら)とペトロ(婦人たち)の間には、キリスト教信仰についての両極端の態度が現れている。

 事実を知りながら、事実をなかったものとして、人に伝える者と、いまだ事実を知らないけれども、事実があることを察知して、その信じがたいような事実を信じて、人に伝える者との両極端である。

 仮にペトロが主イエスと事実として対面していないとして、主イエスの遺体を盗み出すという、ユダヤ当局がばらまいた偽情報のようなことをする動機はあるだろうか。

 ユダヤ当局は弟子たちが、そういう虚構をまき散らすと思っていただろうが、当のペトロ自身にはそのような動機はあり得ない。もしそうであるなら、その後のペトロの生きように影響しないはずはないが、彼はしっかり、遺体喪失に驚いているのであるから、彼が遺体泥棒などする動機は消されてしまうだろう。イエスが復活せずに、遺体のままでありつづけとしたら、そのことを当時者として知っている者のその後の人生は、虚構によって基礎付けられていることになる。

 その後のペトロを観るならば、虚構と知りつつ、「主イエスは生きてられる」という宣教の言葉を、なお語り得たであろうか。もちろんそのようなことはあり得ない。

 復活者イエスは、尋常な被造物と同じ肢体をもっているようで、実は、この世界の人の存在とは異なり、被造物の限界をはるかに超えている仕方で、弟子たちの前に登場された。その特質は随所に現れている。弟子たちの真ん中に、主イエスは突然現れた。その現れた方を観るや、弟子たちは亡霊ではないかと思ったが、その判断が誤りであることを主イエスは身をもって証明される。「主イエスは生きてられる」という経験を彼らは否応なくする。「主イエスはわたしたちの目の前で焼き魚を食べられたのである。」

 

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