検索
  • 日本基督教団 仙台東教会

2019年6月9日№125-23「聖霊降臨の出来事を証しする」 使徒言行録2:1~11 (P.214~215)

「五千人の供食奇跡」に与った人びと、少なくとも1万人以上の群衆がエルサレム入城においても弟子たちの群れに続いて都に来ていた。復活者イエスと直接出会っている人びとも500人以上いたことは報告されている。この一群の人びとは主の昇天も目撃しているだろう。主イエスが約束してくださった再臨(主イエスが再び来臨すること)を人びとは信じて、主の昇天後の時間を生きてゆくこととなった。わたしたちは、この「時の間」を生きている。主の暦はこの「時の間」を刻んできた。

 主イエスの人類救済事業はユダの裏切りによって成就した。人間として最も卑小な評価を永劫に受け続ける命運を定められて生まれた受難者に、主は「人として生まれなければよかったね」と深遠な慰撫(ユダ本人すら理解できない)の言葉を語りたもうた。これにより、歴史時間中、いかなる患難に耐えねばならない人も、「誰がどう評価しようともまことの神さまだけはあなたを、あなた以上に理解し、愛しておられるのだ」という主の言葉として信ずることができる。

 歴史時間内に残された一群の人びとは、ほどなく復活者イエスが歴史時間内に存在する仕方を経験した。聖なる霊として父なる神と子なる神が、地上的歴史時間内に介入されたのだ。聖霊降臨という事件とは、キリストが地上的歴史時間内に存在するようになったという出来事だったのだ。最初の出来事には秘密めいた特徴は何も観察されない。大規模で、誰の目にも明らかな公然たる出来事だ。大音響を聞いた大勢の人が集まって来た事実は、この出来事がそれを経験した人びと以外の人びとにも明らかなものとして経験されたことを示す。「一同」の数は特定できない。しかし、この出来事はただちにペトロの説教を引き起こし、その「言葉」を受け入れ、洗礼を受け聖霊共同体(教会)に加わり、再臨(パルーシア)待望生活者となった者が3千人いたという。

 この一群の人びとは、即座に迫害の状況へと押し出されてゆくが、迫害から逃れつつ、逃れつつ宣教するという仕方で群れは点から線、線から面へと拡がってゆき、富める者も貧しい者も、言葉の違い、民族、国家の違い、身体性のコンデイションの違いなどなど、あらゆる多様性の壁を越境して、キリストに属する者の群れは増え続けた。

 この群れは主イエスの肢体として、地上的歴史時間内に、主イエス御自身が存在する形として理解される。ひとりひとりもキリストの代理的な使命を天命として身に帯びている。

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」    (ヨハネによる福音書 17章 21節)

 いまや世界史は、キリスト者共同体の写しとして、きょうだい愛の倫理、共同体の倫理は、主観的な「信仰のあるなし」にかかわらず、「神の支配」こそが社会のありかたの規範として承認されてきつつある途上にあるといえよう。

つまり、「公共性」という言葉が、「神の支配」に言い換えられてきたのである。

0回の閲覧

© 2019 by Sendaihigashi Church. all rights preserved.