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2019年7月風媒花通信

身体の無理はきかないので、仕事がどんなに忙しくても、休息、睡眠はしっかりとることにしている。しかし、数値は気になる。バラモン経典で言えば、わたしもそろそろ、人生の林住期( 森林に隠棲して修行する時期、原義は疲労)を迎えているのだろう。

 キリストにある信仰の言葉に言い換えると、「万物の更新」、「最後の審判」に心を定めて、ひたすら主イエスの来臨に希望を集中する境地と言うのであろうか。今となっては一日がこよなく愛しく、大切に思えてならない。

 エチオピアの宦官に洗礼を授けたフィリポは風のごとく走りより、風のごとく消え去った。伝道者の理想の姿とは、かくのごとく風のように近づき、風の如く消え去るものなのであろう。したがってわたしもまた、やがてはこの集会を去る時を迎えるのだろうが、このフィリポのようでありたいと願っている。人間的関係性を「絆」とせず、聖霊による聖徒の交わりに生きたいのである。

 信徒も牧師も、およそ人は多かれ少なかれ信仰者(宗教者)として生きている。人の生きようとして、生涯、成熟・完成をめがけて誰もが生きようとしている。わたしもそのひとりすぎないが、わたしは、教会の、そしてこの教会の交わりに連なる人びとの、それぞれの「期」と出会い、聖霊により、聖霊を通して,聖霊の存在の中で、聖霊の存在と共に、人生の最後の「期」を生きて行きたいと、切望している。

 身体の衰え、集中力の低下、いずれもが老いてゆくにつれ避けがたいことではあるが、「美しく老いる」ということはできるのではないだろうか。さりとて、「美しく老いる」というあり方は、それではどのような生き方なのか。教会は、「美しく老いる」という、あり方を、真剣に聖書から聴き取るべきではないだろうか。

 おそらく、これは人生の「美学」というような事柄ではない。「美学」というと、それはある種のダンディズムであって、人の生き方の根幹ではなく皮相のスタイルにすぎなくなる。「美しく老いる」ことは、そういう外側の衣装の事ではなく、神と共に生きることの実践に属する事柄であって、人生の根幹からにじみ出てくる「美」である。

ユングの夢の解釈では、文化の相違を超えて、神を象徴する存在として、「老人」が夢に登場するという。そうすると神のみ使いは、絵画では美青年として描かれることもあるけれども、「老人」として登場してもおかしくはない。システイナ礼拝堂の天井画に描かれた神の姿はたしかに「老人」だった。信仰の祖アブラハムをわたしたちが思い浮かべる時に、彼は明らかに白髪の老人であろう。これらの「老人」像は、聡明さ、強い意志、堅固な信仰、細やかな配慮、賢明な判断力など、あらゆる偉大さを象徴している。

 これとは逆に、揶揄として「老害」などと言いながら、老人を貶める術語もある。「姨捨」に見られるように虐待の対象とされてしまうことすらある。老いをどう生き、どう受けとめるのかということは、人類の大きな課題ですらあるのだ。はたして主はどうわたしたちを導いてくださるのか。教会も社会も同時進行的に高齢化社会となっている最中、真剣に考えるべきではないいだろうか。

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