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  • 日本基督教団 仙台東教会

2019年7月14日№125-28 「エルサレム教会はよくぞ信じた、この瞬間こそ」

 ユダヤ人であったペトロが、キリスト者になったことがそもそも不思議でならない。

ただ神の奇跡としか言いようがなく、驚くばかりだ。まして、異邦人であったコルネリウスがペトロと劇的な出会いをしてゆく。その事実がまた神の奇跡としか言いようがない。その心の道程を深く考えて続けることは、即「私」がキリスト者となった事実と、深くつながっており、また神の奇跡に他ならないという感慨をもたずにおれない。

 コルネリウスに起きたこと、ほぼ同じ時にペトロに起きたこと、すべてが神の導きのうちに起きている。神の奇跡は、本当に起きるし、現に起きている。

 わたし自身も奇跡によって生きている。神の奇跡なしには今の私は存在しない。それは私の家族も同様だ。ただ、奇跡が現に起きている事実を神の奇跡として受けとめ、記憶にとどめ、繰り返し熟考し、繰り返し感謝することを忘れる、もしくは気づかない、こういう人が多いのではないか。神はまことにいましたもうのに。

 ペトロは、コルネリウスとの出会い、そして彼と彼の親類や親しい友人たちに聖霊が降下した事実、洗礼を授与した事実を、エルサレム教会に報告した。エルサレム教会のユダヤ人信徒たちは、「割礼を受けていない者のところに滞在し、一緒に食事をしたペトロは、重大な律法違反をした」、と非難していた。イエス・キリストによって救われた事実を既に経験していたとはいえ、このときのユダヤ人信徒にとっては、「異邦人との共食を禁ずる律法」は、なんと言っても神の掟である。だから、それを大胆に破ったペトロの行動は、非難すべきなのは当然だった。わたしたちは、ペトロをここで非難した人びとが極めて真面目なキリスト者であることを片時も忘れてはならない。

 教会のなかで、しばしば信仰の理解をめぐって意見の相違によって分争が起きることがある。初代教会にも分争が起きた。それは救いの理解を巡る事柄だけに真剣な論議であったはずである。これを避けることはできない。事なかれ主義(物事に対し、波風が立たないように対応すること)で等閑視(無視して放っておくこと)することは福音宣教においてはあり得ない。この生真面目なエルサレム教会の信徒たちは、おそらくはエルサレム教会の大部分の信徒の正直な反応だったが、ペトロは、事柄の「次第を順序正しく説明し始めた」ところ、「この言葉を聞いて人びとは静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を賛美した。」のであった。はじめは、ペトロの行動を「非難」していた同じ人びとが、ペトロの説明を聴いて、信じたのである。いまや、異邦人との「共食」を禁じた律法が、異邦人への聖霊降下によっては、すでに「無きに等しいものとなっている」という事実を信じたのである。

 異邦人との「共食」が「罪」であると信じて疑わなかった人びとが、異邦人との交わりを歓喜して、神を賛美するようになった!

 神の奇跡を、この人びとは、「神の奇跡」として信じた。神の掟を真剣に信じていなかったならば、真剣にペトロを非難したりはしなかったであろう。真剣に信じていたからこそ、真剣に非難したのだ。だが、エルサレム教会のこの人びとは、神の奇跡を等閑視したりしなかった。まっすぐに受けとめ、信じた。もはやコルネリウスたちは「きょうだいしまい」なのだと歓喜し、神に感謝し、賛美する者となった。これをも「神の奇跡」と言わずにおれようか。


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