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  • 日本基督教団 仙台東教会

2019年7月28日№125-30 「霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取る。」ガラテヤの信徒への手紙6章1節~10節(P.350)

 「人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」

 若い時分は、園芸を趣味にする友人の気持ちが理解できず、種を蒔くという事が、わくわくするような経験だということを知ったのは、50歳も過ぎてからのことだ。

 経験を重ねて成熟、成長することで、喜びの広さ、深さを知ってゆく。神の創造のみ業の偉大さは、自分自身を魂を吟味することで、より広く・深く知るようになる。

 「実際には、何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。」自惚れとか、優越感とか、思い上がりという心理状態は、自分自身を欺くこと、すなわち騙しているという洞察。なぜ、そう言えるのか。他者と自分を比較する世界に生きていると、自己欺瞞(自分を騙すこと)が習い性となるということだろう。神のみ前で、人は完全な意味での平等な存在である。神以外に人間を最終的に審判する事は権利としてもたない。誰かが他の誰かよりも優れているとか、劣っているとか、そういう評価を人間同士でしあうことは、神の審判の前では無意味だ。自分が他者に比べて優れていると自惚れても、その自惚れが神の審判の前では「罪」以外の何者でもないからである。その自惚れを神がどう見ておられるか知らないのに、自分で神の代わりになって自己評価できてしまう。その無神性こそ「不義」だということを、彼は熟考すればわかる筈だが、それをしようとはしない。そこに「不義」「罪」「自己欺瞞」が起きているということだ。

 そこでパウロは、そこまで洞察した上で、「自己吟味」を勧める。

 信仰とは、とりもなおさず「自己吟味」をたゆまず、しているかどうかで、生きている信仰か死んでいるアクセサリーの信仰かがどうしようもなく判明してしまうものだ。

 神が与えてくださった広く、深い喜びの世界は、自分にだけわかっていればよいのだ。

 モンテッソーリ教育は、誉めない教育法だ。この世では、ほめちぎる教育法が大流行しているが、誉めないのだ。誉めれば誉めるほど、誉められたという快感、報酬は、次の快感、報酬を求めるようになる。それはつまり、誉められたいという動機が主因となって、他者の動機付けなしには喜びを得られなくなる人格を形成してしまいかねない。

 その報酬系の回路は、他者との比較を堪えず求めるようになる。そして人間同士を格付けする差別者となってゆく。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。」神が創造した人は、神の御前で言葉の完全な意味で平等存在だ。人は他の誰からも、その存在の意義を否定されるような存在ではもとよりない。神の創られし固有な人格存在だ。かかる固有な人格存在は神の似姿としての被造者である。

 その神の被造者に対して、侮ることは、神を侮ることに直結している。だから言わねばならない。人を差別することは神を侮ることに等しい。

 だからこそ言わねばならない。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。」

 「人は自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」

 絶えざる「自己吟味」なしに、神から賜った贈り物(才能、チャンス)を私的に簒(さん)奪(だつ)(帝王の位を奪い取ること)すれば、その結果の果実はそれなりのものになるということである。

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