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  • 日本基督教団 仙台東教会

2019年8月11日№125-32「弟子として生きるということ。」ルカによる福音書9章51節~62節

主イエスの宣告は、まことに厳しいものがある。通常の日常的感覚において、最も大切な家族との別れの挨拶とも言うべき葬儀や、長旅の惜別の挨拶を、主イエスは厳しく禁じているように見える。このような厳しい覚悟を皆が皆受け入れてイエスに従ってきているのだろうか。

 聖書が語る事実は、驚くべき事実だった。「多くの婦人たちもそこにいた。」という。その周囲にはさらに多くの人びとがいたことであろう。

 かかる厳格な宣告をされた二人は、その後、どのようになったのであろうか。聖書は沈黙する。その回答は、読み手自身に委ねられる。聖書は、「正解」を直截には語らず、読み手のすべてに決断を迫る。およそ、イエスに従うということが、どのような事柄なのか、主イエスは、「狭き門」であることを宣告する。このエピソードは「門」の意味を示す。この「道」は、この世の幸福追求的動機の基礎である「家族への愛」の清算を迫るからだ。「天国の門」は狭いのである。この厳格なみことばは、スクリーニング(ふるいにかけること。選抜。選別)を意味している。「ふさわしくない」というみことばが、そのことを示している。

 「門」のところで、通れるか通れないか、選抜が起こる。イエスご自身が「わたしは命の門」と宣言された。

 『逢佛殺佛 逢祖殺祖 逢羅漢殺羅漢 逢父母殺父母 逢親眷殺親眷 始得解脱』、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(身内)に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん」(臨済義玄、諡:慧照禅師)

 臨済禅の教えをふと思い出す。「仏に逢うては仏を殺し、親に逢うては親を殺し」は、「殺す」という語に、あらゆるとらわれ、執着、固定観念を棄てきるという意味が込められ、「殺す」ことこそ「活人」だという教えだ。

 主イエスの宣告もこれに似ているのかもしれない。

 そうであるなら・・・・、

 主イエスの厳格な宣告の意味は、むしろ真実な意味で人を愛する道を歩みたいのであれば、人間が生来もって生まれた罪に汚濁した「愛」を棄てよ。

 人間的限界の中で利己的動機に起源する「愛」を超脱せよ。

 そして、真実に人(親・家族)を愛するには、神の愛をもって愛するのだ。

 このように、主イエスは命じておられるということになるだろう。

 厳しすぎるほどに厳しいイエスの厳命にもかかわらず、多くの人びとが従ってきていた。この事実の重みは限りなく重要だ。

 この群衆は、この超俗を一人ひとりが決断して、ここに来ているからだ。彼ら一人ひとりが、主イエスの厳命に従って、村を出てきた。町を出てきた。家を出てきた。そしてここにいる。イエスに従う人々は断じて利己的な動機で従ってきているのではない。彼らは、自分自身の限界ある「愛」を超えたところで、家族を愛しているからこそ、ここにいる。

 このような聖霊による「愛」をもって、人を愛する熱意に満たされていたからこそ、彼らは、家を出てきている。そういう彼らこそ家族愛の実践者なのだ。

 主イエスの家族眷(けん)属(ぞく)への訣別命令は、そう捉えるとき、もっとも激しい家族愛の命令と読み取ることができるであろう。 

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