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2019年8月18日№125-33「隣人となるということ。」           ルカによる福音書10章25節~42節

人として主イエスに対して嫉妬と憎悪を抱く一人の律法の専門家が、イエスとの対話を経験してゆく過程で、主イエス自身から「正解」を教えられることなく、イエスの語る永遠の生命への道に気づき始め、その道を歩き出す。これは「奇跡」というべきだろう。イエスとの対話において、彼は「愛の実践命令」を命じられる。「命じられる」という事自体に、命じられた事柄への「力」の授与が前提されないはずはない。主イエスが命じているからには、その命令を遂行する「力」も「信仰」も、既に授与されていると言える。これは紛れもない「奇跡」だ。

 最初彼は、彼の自身の「問い」には、不純な動機によって「問い」そのものが真剣な意味を、彼の中ではまだもっていなかった。彼の動機は、「永遠の生命」の希求ではなく、「イエスという男」を試みることにあった。試みるとは、要するに貶めるための言質をとることであろう。彼がイエスを見つめる目は、嫉妬や憎悪のに輝いていたであろう。言質をとるために、イエスがどう答えるかによって攻撃材料を得たいのだ。

 彼の最初の「問い」に、彼は自分自身で答えを出す。全律法の要である「神への愛」と「隣人への愛」への神の命令だ。主イエスは「その通りだ」と彼の出した答えを支持し、その通りに実践するように命じた。そのとき、彼の中で、ある変化が起きる。彼は彼の回答の正当性を支持してもらったにもかかわらず、彼は自分自身を正当化しようとしたという。支持されたのに何故「正当化」しようというのか。彼の中には主イエスの「支持」が想定外だったのであろう。「自分を正当化しようとして」彼は、「では、隣人とは誰ですか?」とたたみかけた。

 実はこの第2番目の「問い」こそが、彼の中での「隣人愛」の意味を暴いてしまった。彼の「問い」は、「対象としての隣人」が「誰」であるかというものだ。つまり愛すべき隣人と、そうでない隣人を予め想定して、「誰」を愛すれば「永遠の生命」を得られるのかという意味となっている。これは「差別の愛」だ。愛すべき誰かはいくら愛してもいいし、愛すべきだが、愛する必要のない「誰か」は愛の対象には入らない。

 そんな彼が答えるごとに、しだいに変容してゆくのだ。譬えを聴いた後に、彼が出した答えは、彼自身が判断したものである。主イエスは譬えを話したが、「正解」を教えた訳ではない。飽くまで答えを出したのは彼だ。

 答えた彼に、主イエスは、その答えをやはり実践するように命じられた。「愛の実践命令」である。この命令には、彼の想定外の判断が含まれていた。彼は、譬えに登場する二人の人物の同業者であり、譬えを聴いている時、彼は、祭司やレビ人と自分を重ねていたであろう。「これは自分のことを言っている。」と聞こえていたであろう。彼には祭司やレビ人が「それなりに正当性」を主張し得る道理があることを知っていたし、自分もそれらの主張に合意している。彼らは愛してはならない者を愛さなかったにすぎないので、少しも間違ってはいないのだと。

 そんな彼が、愛の「対象」を選別する「差別の愛」の位置からかけ離れた、「無差別の愛」に気づく。「誰がこの傷ついた人の隣人となったのか」という主イエスの「問い」に、彼は自分の「正解」とは異なる「正解」を出した。

 「誰か?」という対象を区別・差別する愛ではなく、「隣人となる」という主体的な愛、無差別、無条件の愛こそが問題なのだ。

 主は再び「無差別の愛の実践命令」を語る。彼の実存がここに誕生した。これぞ「奇跡」だ。「その後の彼」がどうなっていったのか、ルカは語らないが、ファリサイ派からもイエスへの信従者が出てきていたことはあったので、この人物が信仰者として群れの中に参集して行ったことは十分にあり得る。こう黙想してゆくと、この記録は、「ある律法の専門家の回心」の出来事の記録と読み解くことができるのだ。

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