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2019年8月4日№125-31「多くの婦人たちも一緒だった。」ルカによる福音書8章1節~3節

 多くの婦人たちが主イエスに随行する旅の一行に加わっていたという事実を、いかに想像するか。そこにはさまざまな可能性が考えられる。

 この事実を「解読」する側の経験がそこに色濃く反映することはやむを得ないし、避け得ない。ただしこの「事実」に神の啓示が隠されていると堅く信じて、主イエスの存在を見透す事がなければならない。 

 出エジプトの旅程では、神が顕現する「場」には特別な祭司のみが立ち入ることをかろうじて許された。まして女性たちはその「場」からは疎隔されていた。彼女らはただ族長たちに追随する群れの中に存在を許されていたにすぎない。

 神の「啓示」の表舞台の周縁が彼女たちの「場」であった。

 神の「啓示」を「表舞台」からだけ見ていては、神の存在を見失う。

 神は、われわれの思いを超えた世界からご自身を示されるからである。

 主イエスが十字架上で辛苦の絶頂にあるとき、イエスの御許に身を寄せていたのは婦人であったし、甦りの主イエスと初めて会話を交わしたのも婦人であった。神の啓示は、「啓示」の周縁に位置していた女性にこそ、啓かれたのであった。

 律法の時代がアブラハムの約束の子の時代に転換してゆく時の結節点には女性がいたのだ。キリスト教会の指導者たちは女性だったのであった。

 ここに名を記憶された女性以外の「匿名の女性指導者たちの存在」が初代教会を支えたと見て良いと私は思う。名もない女性たちが具体的に何をしたとかしなかったとか、そういう業績というものは問題にならない。

 彼女らが「そこにいたという事実」が、何にもまさって輝かしい光彩を放っている。

 彼女のひとりひとりには、必ず固有な劇的な事情があったであろう。どのひとつをとっても偉大な文学作品以上の奇跡的、感動的な信仰の証しが隠れているはずだ。そのひとつひとつを想像することは、即われわれの周囲のあの人この人と重なることであろう。

  「七つの悪霊を追い出していただいた女性マグダラのマリア」、彼女は名を残されるほどに、「贖われた罪人」、「義とされた罪人」を代表している。「七つの悪霊」が具体的に何を指すかは不詳。後世にカトリック教会は「七つの罪源」を挙示した。(「貪食」、「淫蕩」、「金銭欲(強欲)」、「悲嘆」、「怒り」、「怠惰」、「虚栄心(自惚れ)」、「傲慢」ポントスのエウァグリオスによる)これらは「死に至る罪」とされる。

 もし、この罪のリストと「悪霊」が関係すると考えるならば、初代教会の人間理解に私は驚嘆する。すなわち人の存在そのものと罪とを完全分離・区別していたということになるからだ。言い換えれば昨日まで恐るべき大罪を犯していた女性を、大罪を犯した真実の主体は「悪霊」なのであって、マリア自身は無(む)辜(こ)(何の罪もないこと)の存在だと、完全に理解していたことになる。

 この「罪人マリア」を初代教会は、「教会の母」としたのだ。驚くべき人間理解の徹底性だろう。

 マリアは、かつて自身を占拠していた「悪の根源」を熟知し、かつ超克し、かつ支配しつつ、罪人を理解しつつ、赦し、癒し、立ち上がらせたことであろう。

 名を残したマリア、ヨハンナ、いずれもが、かつての自身から超脱し、「新しい生」に生きる者となった。彼女らをめぐる周囲との葛藤や苦悩すらも、われわれの希望や慰めとなるであろう。

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