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  • 日本基督教団 仙台東教会

2020年1月12日 №125-54  「主イエスの洗礼の秘義・十字架の血潮」

ヨハネによる福音書1章29節~34節(P.164)

  主イエスの洗礼に秘められている核心は、十字架の血潮です。

  「イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか。』」(マルコ10:38)

 ここで主イエスが受ける洗礼とは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから受けた洗礼ではありません。

 これから行くべき十字架の道行きの頂点で、主イエスの脇腹からほとばしる「血潮」です。主イエスが脇腹を槍で突かれたとき、その痛み、身体としてのイエスの死が具体的に開始されました。

 地上の被造者のかたちとしての神が、人類の罪の贖いの犠牲として、父なる神ご自身に向けて献げられる瞬間でした。それは主イエスの犠牲の子羊の「死」の瞬間であり、独り子なる神の「死」の瞬間でした。

 わたくしどもの洗礼は、一度「罪に死」に、そして、甦りの主の生命に与って神の子の生命に生きることです。

 主イエスの洗礼は、わたくしどもに生命を与えるために、全人類の罪の贖いの犠牲の子羊として、ご自身罪なき「まったきお方」であるにもかかわらず、全人類の罪をすべて担ってくださり、十字架上で死んでくださいました。

 この十字架上の死こそ、主イエスの洗礼の核心でした。

 それゆえ十字架の血潮というシンボルは、わたしたちキリスト者に救いをもたらす神の恵みを意味するのです。

 わたしたちが流す涙、汗、血潮が、主イエスの十字架の血潮と繋がるとき、わたしたちは幸いなる哉。

 ここには「苦難の類比」があります。

 無実の罪を着せられて、わたしたちが、死の痛み、塗炭の苦しみを味わねばならない時に、それでもなお十字架の血潮を浴びて、わたしたちは苦難を甘受する決断する他はないのでしょうか、と神に叫ばずにはおれません。

 しかし、そのときこそ、傍らに蹲り、わたしと共に苦しんでいてくださる主イエスがいます。「共苦」しつつ血を流してくださる主イエスがいます。

 キリスト者は地上の裁きではなく、永遠の審判の前に立つことを待望しつつ、生きることに深い、静かな喜びを見いだす事ができるのです。                    感謝。

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