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2020年1月5日 №125-53

「神が人となりたもうた。受肉の秘義。」

ヨハネによる福音書1章14節~18節(P.163)

 祈らずにはいられない心の痛み、辛さをわたしたちは、日々抱えています。この苦悶のさなかで、わたしたちは「かりそめの慰撫」を求めて、自分自身の願望を神格化する誘惑に駆られてしまうのです。

 この苦悶をなんとかしてほしい。だから、なんとかしてくれるところの神を造りだそうとして「解決者」という神に「解答」を求めてしまうのです。

 しかし、そうではない。そうではないのです。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

神の言には力があります。このみ言によってこそ、わたしたちは救われます。神の御旨は、ただキリスト・イエスからのみ知ることができます。神のみ心は、主イエス・キリスト以外の所からは決して知ることはできません。なんという力強い宣言でありましょう。感謝のほかはありません。

 神は幻の神ではないし、神は偽りの神ではないのです。

 神はたしかにまことにまことの神でいましたもう。

 神は人の欲望の鏡像ではないし、神は、被造者ではありません。

 神は全存在者の創造者でありたもう。

主イエスが、「私」の人格の中で思考を導き、具体的な「いま」「ここ」に、いかにふるまうべきか、いかに祈るべきかを示してくださると信じます。主イエスに自分自身を明け渡すべく決意します。そうした日々の献身にわたしたちは生きたいのです!わたしたちはこのような瞑想・祈りを渇望しています。

 「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。」

 神は、わたしたちの間に宿った。主イエスという「被造者のかたち」をもって、わたしたちと同じ苦しみ、同じ辛さを抱える存在として、わたしたちの間に到来されました。それゆえ、わたしたちの苦悶は、主イエスが苦悶された苦悶と質的に同じ苦悶であるというのです。主イエスが「今」「ここ」で、私が苦悶している傍らで、同じ苦悶する方として現実に存在していてくださるというのです。

 インマヌエルの神、神、われらと共にいます神!

 この苦杯は、主イエスが受けたもう苦杯であれば、この苦杯には「愛」という神の意志がこめられているではありませんか。わたしが「苦しい」というこの苦悶は、わたしが神と隣人を、存在をかけて愛しているゆえからなのだというのです。神さま、感謝です。わたしたちのこの苦悶は、愛するがゆえに必然の十字架の苦悶なのですね。

 神さま、感謝です。愛するがゆえの苦悶をも恵みとして賜り感謝です。

「私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。」

 傍らに立つ主イエスと共に在る恵みによって、主イエスに充満する愛、充溢する豊かさを受けるのです。生きる辛さまでもが、主イエスによりて、愛する者としての豊かな喜びへと変えられます。

 神さま感謝です。

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