2020年3月22日 №125-64

「家は香油の薫りでいっぱいになった、その刹那のために」

 ヨハネによる福音書12章1~8節(P.191)

      なぜ、祭司たちはあのラザロまで殺そうとしたのか。疑問はここに始まった。
 おそらく、主イエス殺害計画とラザロ殺害の動機とは関係があるとは、誰しもが想像するだろうけれども、何故なのか。主イエスを敵対者たちが「許せん、生かしておけん。」と考えたのは、彼らの信仰観からすれば、当然の帰結といえる。彼らは悪人ではなく、むしろ信仰熱心な善意の人たちばかりなのだ。しかし、人間とは不思議なもので、善意の人が人を息をはずませて殺しにかかる動物なのである。
 この時点では、安息日規定を公然と破ってみせる主謀者イエス殺害よりも、ラザロ殺害の意志が前面に出ていた。主イエスへの群衆の人気や傾倒は半端なく激しく、敵対者たちも群衆の反応を恐れていたし、敵対者たちの間にも異論があったことが窺える。しかしながら、主イエスへの殺意は主イエスの堂々とした振る舞いとは裏腹にその「感染力」を増し加えていた。 
 「感染力」はどのようなものであったのか。直接的な目撃体験、間接的な伝聞、「噂」の形成、噂の感染、感染経路に感情が付加され増幅する。断片情報の聞きかじりへの浅慮が殺意の感情と意志に織り込まれてゆく。奇跡の事実が「悪霊の頭ベルゼブルの所業」と驚異的なスピードで解釈され伝播した。
 「ナザレのイエス=異端者」フォビア(嫌悪)ともいうべき差別・憎悪感情に、祭司、律法学者は満たされてゆく。イエス・フォビアが沸騰点に達したときが、サンヘドリンの裁判だ。彼らはデマ・フェイクをみずから拡散しながら、自らがパニックに陥る。焦慮と不安がつのり爆発寸前だ。「隔離だ」「排除だ」「生かしておけぬ!」とエスカレートした。彼らを留めているのは、群衆への配慮もしくは恐怖だけだった。「イエスの時」が迫っていた。
 ラザロは、死人から甦った者だった。彼がいつまでも生きていてはナザレのイエスを完全に「封じ込める」ことは不可能に見えた。「甦り」の奇跡が、「悪霊の頭の所業」だと考える敵対者の目には、甦った者ラザロもまた、「悪霊に取り憑かれた者」に見えていたかもしれないのだ。彼らにはラザロは生きているのではなく、実は悪霊に憑かれているだけなのだという訳だ。そんな「哀れな男」であれば、むしろ死の世界に送り返してやるべきだ。彼らはそう考えたのかもしれない。そうだとすれば、ラザロは殺さねばならない。彼らにしてみれば、「それこそ愛であり、慈悲なのだ!」。敵対者たちにはラザロ殺害はラザロ救済の行為に他ならず、善意の使命感に燃えての殺害だということになる。
 この場面は、外形的には集団リンチであり、襲撃事件だ。だが、襲撃する者たちの動機は、彼らなりの「慈悲」であり、「救済」だった可能性があるということだ。ただ、この時点では「襲撃」は未遂におわった。ラザロの甦りに、「神の奇跡」を観ていた大勢の群衆の「目」が許さなかったかったからである。
 それだけ、この部屋には生命の輝きがあった。
 悪霊の放つ屍臭ではなく、部屋一面に神々しくもさわやかなハーブの薫りがたちこめていたのだ。この情景に、群衆は癒され、感動したに違いない。彼らが観たものは、「天国の食卓」であった。死人から甦ったラザロは、「神と共に食事をとる者」に見えていたのだ。これこそ、ユダヤ人が夢見ていた「アブラハムの食卓」だったのだ。
 「ナルドの香油」塗油の出来事は、主イエスの「葬りの日」のための出来事だと主は言われる。それは主イエスご自身の口から語られた。だが、その真の意味を弟子たちが理解していたかは疑問だった。特に、ナルドの香油を主に塗った女性の行為を見とがめて、押しとどめようとした者もいたからだ。ヨハネ伝では、それはイスカリオテのユダだという。弟子の無理解に比べて、この女性、ヨハネ伝ではマグダラのマリアの行為は、既に主イエスの十字架への道を知っているかのようである。この高価な香油を惜しげもなく、すべて使い果たして自らの髪につけて塗油している。この大胆な振る舞いを決断させているものがあるとすれば、それはこの行為をもって、主イエスへの全面的かつ決定的な、献身以外に考えられない。いまここで、すべてを献げねばならないという切迫感、全財産をなげうつ自己放棄。これは、決して一時的な思い入れなどではなく、熟慮に熟慮を重ねたうえでの自己投企だと観るべきだろう。彼女のこの振る舞いにこめられている一途な献身は、われわれキリスト者の「献身」のモデルである。彼女のひたむきな思いに、われわれも心を寄せてひとつになるべきである。

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